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ウェーバー『宗教社会学論選』みすず書房[1920-21=1972]

 

1.宗教社会学論集序言

 

◆問題提起

・「いったい、どのような連鎖が存在したために、ほかならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化諸現象が姿を現すことになったのか。」(5)

→西洋近代に特徴的なもの:科学、神学、哲学、天文学、幾何学、力学、物理学、化学、歴史叙述、法典編纂、和声音楽、ゴシック式のドーム建築、絵画および空間の遠近法の合理的な利用、学問の合理的・組織的な専門的経営、官僚組織(法律家的な訓練をへた国家官僚)、アンシュタルトとしての国家、資本主義、 (-10)

 

◆資本主義

・ウェーバーの定義:無際限の営利欲ではない。「持続的かつ合理的な資本主義的経営という姿をとって行われる利潤の追求」。「繰り返し行われる利潤の追求あるいは『収益性』の追求。」(10)「交換の可能性 (Chancen) を利用しつくすことによって利潤の獲得を期待する、そうしたところに成り立つような、したがって、(形式的には)平和な営利の可能性の上に成り立つような経済行為」 (11)

→資本主義の合理性:資本計算の合理性(貸借対照表)

→ブレンターノ、ジンメル、ゾンバルト等の定義にたいする批判

・通俗的な「資本主義」の定義:「営業成果の貨幣評価額と営業元本の貨幣評価額の比較へと現実に指向していること、これが経済的行為を決定的に制約しているということ」

→しかし、こうした意味においてならば、「資本主義」や「資本主義」的企業は、……地球上のあらゆる文化諸領域に存在した。(13)

・「資本主義的冒険者たちは世界のどこにも存在した。」その条件は、純粋に非合理的・投機的なものか、暴力行為(とりわけ戦争による強奪)による営利であった。(15)

 

◆西欧近代における資本主義の特殊性

・自由な労働の合理的・資本主義的な組織

@市場による利潤獲得の可能性をめざすような合理的経営組織

A家計と経営の分離

B合理的な簿記、経営財産と個人財産の法的区分(16-7)

 

◆文化の普遍史的考察における中心問題

・問題は、「純粋に経済だけをとってみた場合、究極において、冒険者型資本主義や商人的資本主義、あるいは、戦争・政治・行政とそれによる利潤獲得の可能性を指向する資本主義というような、形態だけは変化しているが、至る所にみられる資本主義的活動そのものの展開といったことではなくて、むしろ、自由な労働の合理的組織をもつ市民的な経営資本主義の成立、という事実」である。(19)

→「西洋における市民層とその特性の発生こそが問題」

・例えば、インドでは代数学が発展したが、そのような成果を役立てたのは西洋資本主義であった。西洋では、技術的利用に、そうした経済的報償がかけられてきた。このことは、法と行政の合理的な構成が重要な要因となっていたが、そのような法がもたらされたのは、合理的な法の専門的訓練を受けた法律家身分に属する人たちが司法や行政を支配したからであった。しかしそれはなぜか。

・西洋の独特な合理主義:「西洋、なかんずく近代西洋における合理主義の独自な特性を認識し、その成立のあとを解明することが問題である。」(23)

・「経済的合理主義は、……特定の実践的・合理的な態度をとりうるような人間の能力や素質にも依存する」。→「生活態度にとって最も重要な要因は、過去においては、つねに呪術的および宗教的な諸力であり、それへの信仰に基づく倫理的義務の観念であった。」

 

◆直観について

・「『直観的に捉えること』を願う人々は、映画館へでも行くがよい。……みずから芸術家的創造や予言者的挑戦を使命とし、またその能力に恵まれていると考えるのでなければ、自分のとるに足らぬ個人的注釈などそっと胸にしまっておいたほうがよい。……多く『直観』を云々するのは、対象から距離を保とうとする醒めた態度を失っているのを隠そうとしているだけのことであって、人間に対する同じような態度と同様、批判されなければならない。」(26-27)

 

 

2.世界宗教の経済倫理 序論

 

・【世界宗教】「多数の信徒を集めることのできた、宗教的ないし宗教的に制約された生活規制の体系、すなわち、儒教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラム教、この五つの宗教倫理」(33) および、ユダヤ教。

・【宗教的「経済倫理」】「宗教の心理的なまたプラグマーティシュな諸関連のうちに根底をもつ行為への実践的起動力」(34)

 

◆経済倫理と社会層の研究

・「経済倫理は、宗教的ないしその他の『内面的』な諸要因によって制約されている人間の対現世的態度とは異なって、純粋に固有な法則性をもち、かつその尺度は明らかに経済地理的なまた経済史的な諸事情によって高度に規定されている。とはいえ、生活様式が宗教によって規定されるという面が経済倫理の決定的要因の一つであるということもまた確かである。」(35)

→ここでは、「その宗教倫理を他の宗教倫理から区別し、また同時にその経済倫理自体にとって重要な意義をもつ諸特徴を刻印したところの諸社会層について、彼らの生活態度に方向づけを与えた諸要因を取り出してみる。」(35-6)

 

◆宗教の担い手

・儒教:文書的教養を備えた現世的・合理主義的な受禄者層の身分倫理

・古代ヒンドゥー教:文書的教養人の形づくる世襲的カースト

・仏教:現世を拒否して生地を棄てて放浪しつつ、もっぱら瞑想をこととする托鉢層

・イスラム教:訓練を積んだ戦士からなる騎士団の宗教→(中世)瞑想的・神秘主義的なスーフィー派→ユダヤ教独自の書籍的・儀礼的な教育を受けた知識人の指導→小市民的知識人へ

・キリスト教:都市に独自な、市民的な宗教。

 

◆宗教倫理と宗教意識の関係

・宗教倫理は、第一次的には、宗教という源泉から刻印を受けた。(38)

・宗教倫理と利害状況との関係については、これまで、前者が後者の函数であるという唯物論的解釈が試みられてきた。また、宗教倫理が階級関係によって全面的に制約されているという見解は、ニーチェのルサンチマン理論から導き出すこともできる。(39)

→「『義務』の倫理なるものは、無力なるがゆえに『抑圧され』ている人々、つまり、労働と営利の呪いの下におかれている卑賎な職人たちが、なんらの義務もなく暮らしている支配者層の生活に対して抱く復讐-感情の所産である」という説。

 

◆幸福の神義論

・苦難に対する評価:神に憎まれていることの徴候または隠れた罪過の印とする。

・「幸福な人間は、自分が幸福を得ているという事実だけではなかなか満足しないものである。それ以上に彼は、自分が幸福であることの正当性をも要求するようになる。自分はその幸福に『値する』、なによりも、他人と比較して自分こそがその幸福に値する人間だとの確信が得たくなる。……もし『幸福』という一般的な表現をもって名誉・権力・財産・快楽などのあらゆる諸財を意味せしめるとすれば、この幸福の正当化ということこそ、いっさいの支配者・有産者・勝利者・健康な人間、つまり幸福な人々の外的ならびに内的な利害関心のために宗教が果たさなければならなかった正当化という仕事のもっとも一般的な形式であり、これが幸福の神義論と呼ばれるものである。」(41-42)

 

◆苦難の神義論

・「これに対して、この観点を逆転させて、苦難の宗教的聖化へと至らしめる道程ははるかに複雑である。」(42)

→エクスタシス的・幻視的・ヒステリー的な、つまり非日常的な状態は、すべて聖なるものとして評価され、この状態を生み出すことが、呪術的禁欲の目的となる。

→苦行(超人間的な力を獲得するための通路)のもつ威信

→個人的苦難を、社会的な「救い」の制度(Anstalt)化によって解決しようとする。

→民族共同態の苦難が宗教的な救いの待望の対象となる。

→不正を罰し、正しいものに報いるという倫理的な神性の出現

→合理的な世界観にあわせて、苦難の意味は変化していく。作為的に作りだされた苦難としての「苦行」は意味を失っていく。→世界の合理化に伴って、幸福財(Glücksgüter)の配分の倫理的な意味を問うようになる。幸福財を手にするのは、成功によってか「善き人」という功績merit[業績の価値ではなく行為の道徳的特徴を表す言葉]によってか。

・「……運命と功績の不一致の根拠に関する問いに満足のいくような合理的な答えを与えうる、そうした思想体系の姿をとったものはごくわずかであった。すなわち、インドの業の教説、ゾロアスター教の二元論、および、隠れたる神の預定説、この三つであった。」(48-49)

 

◆社会層と信仰

・恵まれた社会層は、救いへの要求をわずかにしかもっていない。社会的な名誉と権力をしっかりと握っている社会層は、その身分にまつわる伝説(血統など)を作り上げる。彼らの自尊心を育てるものは、存在(sein)である。(50-51)

・恵まれない身分の社会層は、自分たちに委ねられた特別な「使命(Mission)」への信仰によって自尊心をもっとも容易に養うことができる。つまり、彼らの独自な価値を保証あるいは構成するものは、彼らの当為ないし彼らの(機能的な)業績であり、したがって、そうした独自な価値は彼ら自身を超えて彼岸へと移行し、神によって課せられた「責務(Aufgabe)」となっていく。

・「大衆は、預言が特定の約束によって倫理的な性格の宗教的運動に引き入れてしまうのでなければ、本来原始的な粗野な呪術のうちにいつまでも閉じこめられたままでいるものである。」(52)

 

◆救済財(Heilsgüter)

・宗教の提供する救済財は、彼岸的なものというよりはむしろ、実質的で此岸的なもの(健康とか長寿とか富とか)であった。

・昇華された宗教的救済論における二つの最高概念:「甦り」と「救い」(55)

・「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、『理念』によって作り出された『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。つまり、『何から』そして『何へ』『救われる』ことを欲し、また『救われる』ことができるのか、その基準となるものこそが世界像だったのである。」(58)

・例;不浄から清浄へ。人間的な激情と欲望の永遠的な戯れから、清浄な観想の無言の休息へ。根本的悪および罪の軛(くびき)の下から父なる神のふところの永遠にして自由なる和らぎへ。……

→「つねに現実の世界で特殊に『無意味』と感じられるものへのある態度決定と、したがってまた、この現世の組立てが全体としては何らかの意味ある『秩序』であり、またありうるし、さらにあらねばならないという要求が秘められていた。……本来の宗教的合理主義の中心的所産であるこうした要求は、徹頭徹尾、知識人層を担い手としていた。」(59)

 

◆合理化と社会層:世界像および生活様式の理論的かつ実践的な全面的合理化

→宗教は非合理的なものの中に押し込められてしまう。

・合理的組織的な生活様式の諸前提は、非合理的であり、利害状況によって歴史的かつ社会的に規定されている。(60)

A知識階級(知性主義)、とりわけ、現世とその意味をひたすら思索によって捉えようとする上流知識人によって強く規定されている宗教の場合。インド。

→一方では合理的認識および合理的な自然支配へ、他方では、神秘的・個人的な体験へという分裂の傾向をもつ。到達可能な最高究極の宗教財は、瞑想によって得られる単独者の深い至福の休息と不動の境地に入ることである。

B行動的な実践生活をする人(騎士的戦士、政治的官吏など)が宗教の展開を担う場合。これとはまったく異なる。

C罪人の懺悔と助言を職業的に司る教権者層の合理主義は、宗教的救済財の授与を独占し、個々人によっては到達できないような、「聖礼典的恩恵」や「アンシュタルト的恩恵」とした。(62)

・これに対して非合理的なのは、

@政治的官吏による儀礼的な宗教意識。A騎士的戦士層、B農民。

・「市民」層(職人、商人、家内工業的企業家など)は、宗教的立場について、多様な可能性をはらむ社会層であった。(64)

 

◆騎士と宿命:「彼ら[騎士的戦士層]には、英雄たちが一般にそうであるように、現実を合理主義的に支配しようとする欲求も、またその能力も欠けているのが通例であった。『運命』の非合理性とか、また事情によっては、漠然とした決定論的『宿命』(モイラ)といった思想が、剛毅で激情的な英雄とされる神々やダイモーンによって援助されたり敵視されたり、名誉や戦利品に与かったり、あるいは死を与えられたりすると考えられた。」(63)

 

◆預言(65-)

・【模範預言】救済へ至りつく生活の模範を、身をもって示すような預言。インド、中国。

・【使命預言】神の名において社会に要求を突きつけるような預言。イラン、西アジア、西洋。

→市民層を捉えたのは、使命預言であった。「行動的な禁欲──最高の宗教財とみなされた神の所有でも、神とともにある瞑想的な帰依でもなく、神の『道具』であることの感情を抱いて神の意志にかなう行動をすること──は、[使命的預言という]基盤の上で、宗教的態度として優越した地位を占めることができたのであって、だからこそ、西洋においては、そこでもやはり熟知されていた瞑想的神秘論やオルギア的ないし無感動的なエクスタシスに対抗して、行動的禁欲が絶えず優位を維持し続けたのである。」(66)

・使命預言は、現世を超越する人格的な、怒り、嚇し、愛し、求め、罰するような創造主という神観念に親和的であるのに対して、模範的預言は、神観念が、瞑想的な状態としてのみ近づき得るような、非人格的な最高の存在である。(67)

 

◆宗教の身分的分化

・人間の宗教的資質の不平等性→「達人的宗教意識」と「大衆的宗教意識」の対立

・「達人的宗教意識は自己の固有な法則にしたがって展開するものであり、そのためにかならず『教会』、つまり、教役者層をもつアンシュタルトとして組織された恩恵授与の共同態、の教権制的な教役者権力から原理的な反撃を受けることになる。」(71)

・教会は、すべての人に救済を可能なものと捉える点で、普遍恩恵説の立場をとる。この意味では、民主的である。

・達人的宗教意識が日常生活と密接な関係を持つのは、@救済財が、オルギア的・エクスタシス的なものでなく、A宗教意識が、恩恵獲得の手段から純呪術的ないし聖礼典的性格ができるかぎり払拭されていなければならない。

→「現世を呪術から解放すること(Entzauberung der Welt) および、救済への道を瞑想的な『現世逃避』から行動的・禁欲的な『現世改造』へと切り替えること、この二つが残りなく達成されたのは、……ただ西洋の禁欲的プロテスタンティズムにおける教会および信団の壮大な形成の場合だけであった。」(76)

→現世は、「使命としての世俗的職業」の舞台として肯定される。

→「神の奉仕ために方法的に合理化された日常生活の行為」。「合理的な召命[使命としての職業]にまで高められた日常生活の行為が、救済の状態にあることの証明となった。」(77)

 

◆合理主義

・合理主義という用語には、恐ろしくさまざまな意味がある。(81)

→@精確で抽象的な概念によって、体系的な思索家が世界像の合理化を企てるという場合。Aこれに対して、適合的な手段についての計測を精確にすることによって、特定の実践的目的を方法的に達成するという意味での合理化。

・儒教は、いっさいの形而上学を欠いているという点で合理主義的であり、また、功利主義以外のすべての尺度を欠如する点でも合理的である。

・「ルネッサンスの最高の芸術の理想は、ある妥当する『規準』への信仰という意味で『合理的』であったし、その人生観も、プラトン的神秘主義の要素が混入してはいたが、伝統的束縛を拒否し、自然的理性の力を信じるという意味において合理主義的であった。……一般に、体系的・一義的に不変の救済目標を指向するようなあらゆる種類の実践的倫理は、一部は同じく形式的方法性という意味で、また一部は規範的に『妥当する』ものと経験的に与えられたものとを区別するという意味で、『合理的』であった。」(82)

 

◆用語解説

・宗教における【支配団体】:教権制的な団体。すなわち、その支配権力が救済財の授与および拒否の独占によって支えられている団体。(84)

【カリスマ】ある個人の持つ非日常的außeralltäglichな資質。(86)

【伝統主義】日常的な慣習を犯さすべからざる行為の規範とするような心的態度および信仰。(87)

【家産制】官職を授与された者は、臣民から取り立てたもののうち一部だけを君主に払い、残余は手元にとどめておく。彼は官職の権利を他の財産と同様に相続したり譲渡することができる。(90)

・行政と司法における【実質的合理性】と【形式的合理性】の区別(91):「家産制君主が功利的なまたは社会倫理的な立場から自己の臣民の福祉の増大をはかるばあい」と「すべての『公民(Staatsbürger)』に対して等しく拘束力をもつ法規範の支配が、訓練をつんだ法律家の手で実現された場合」の区別。(91)

→形式主義的な法学的合理主義の勝利とともに、合法的支配という類型が登場する。

【身分状況】と【階級状況】(95)

→前者は、社会的名誉に関するチャンスを意味する。後者は、経済に関連するチャンスを意味する。身分状況は、階級状況の原因でもあれば結果でもある。

【所有階級】と【営利階級】の区別(95)

 

 

3.「世界宗教の経済倫理 中間考察」──宗教現世拒否の段階と方向に関する理論──

 

◆首尾一貫性がもつ力

・「知的・理論的な場合であれ、あるいは実践的・倫理的な場合であれ、ある立場を選択する際の論理的なあるいは目的論的な『首尾一貫性』という意味において合理的なものは、……人間を支配する強い力を持っている。」(101)

 

◆禁欲と神秘論の類型学:現世拒否の二類型(103)

@行動的禁欲(神の道具として聖意にかなうように行為すること)

A神秘論的瞑想(行うことではなく、持っているということ。神の容器となること)

 

 

禁欲

瞑想

現世内での実践

■現世内禁欲

(勤勉な労働者)

現世内的神秘論

(世俗の鑑賞者)

現世逃避的実践

現世逃避的禁欲

(孤独なランナー)

■現世逃避的瞑想

(神秘主義)

 

【現世内禁欲と現世逃避的瞑想の対比】

・「神秘家の典型的な態度[たとえば老子]は、独自の心砕かれた謙虚さであり、行為の極小化、一種の宗教的な現世的無名化であって、現世に対立し、また現世における自分の行為に対立しつつ、そうしたかたちで自己の救いの確証を得ようとする。現世内的禁欲者にとっては、これとは反対に、行為を通じて自己の救いの確証を得ようとする。現世内的禁欲者にとっては、神秘家の態度は怠惰な自己満足であり、神秘家にとっては(現世内的に行為する)禁欲者の態度は、義認を受けているという自分だけのむなしい考えを抱きつつ、神と関わりのない現世の営みのなかに巻き込まれている、ということになる。」(105)

・「現世内禁欲」:ピューリタンの幸福な頑迷さ。被造物の合理的秩序に現存する「神の意図」を実行しようとする。神秘主義」:究極の「非合理的な意味」を捉えようとする。

□ウェーバーが考察を留保している類型:「現世逃避的禁欲」と「現世内神秘論」の対比:現実との接点が限られた職業(マラソン・ランナーや研究者など)は、ピューリタンとは違って、被造物の合理的秩序に意味を見出さず、ひたすら行為の主観的意味に特化するような個別性を生きる。これに対して、現世を鑑賞しつつ、その意味を体系的に理解していくような社会鑑賞家(ポスト・モダン的主体)は、現世において禁欲せず、しかしそこに潜むパラドキシカルな意味を見出すことに、美徳(救い)の方向性を求めている。

 

◆呪術

・「呪術は、カリスマ的資質を目覚ますためか、邪悪な魔術を防ぐために行われた。」(106)

・呪術師は、預言者や救世主の先駆をなす。

 

◆「救い」と合理性:

・苦難からの解放=救いの宗教は、生活様式全体の合理的組織化を行う。「オルギア[狂宴]や禁欲ないし瞑想によって尖鋭かつ非日常的に、つまり、一時的に聖なる[救済の]状態へ到達するというのではなくて、救われた者にいつまでも救済の状態を保証するような、持続的な聖化の境地にたどりつく」こと。

→こうしたことが、「救いの宗教の合理的目標となった。」(107)

→生活規制の世話は、祭司的教権者層の手に帰するようになっていく。

・伝統によって聖化された権威⇔カリスマ的預言者

□呪術師→カリスマ的預言者・救世主→祭司的教権者層、という変化。

□ここでの「合理性」概念に注意。「組織化」という意味に近い。

 

・「宗教的および現世的諸財の外的・内的所有、そのさまざまな領域に対する人間の関係が合理化されまた自覚的に昇華されていく過程は、個々の領域における内的な自己法則性inner Eigengesetzlichkeitenを否応なしにつきつめた形で意識させ、それによって、外界との関係に関する原生的で素朴な考え方のなかには現れてこなかったような、諸領域相互間の緊張関係が否応なしに生み出されることになった。」(108)

□救済財の希求が、素朴なものから、合理的なもの・自覚的なもの・知識によって昇華されたものへと、変化する→すると、諸領域の緊張関係が生まれる。

 

◆現世拒否の諸方向。経済的・政治的・審美的・性愛的・知識諸領域

・氏族共同態 (Sippen-gemeinschaft) という原生的で自然な諸関係→氏族の呪術的な束縛や排他性の打破→救い主を待望する教団的宗教意識への成長→預言による宗教的同胞倫理の形成:@対内道徳と対外道徳の二元論、A対内道徳における素朴な相互主義 (110)

 

□普遍的な同胞倫理

【相互扶助倫理】:同胞間の緊急扶助の義務:無利子の貸し付け、無償の飲食供給など。

→これは、「今日あなたに欠乏しているものは、明日私に欠乏することになるかもしれない」という「感情的に同感されているような原則」に基づく。

【愛:救いの宗教的昇華】:[相互扶助倫理は]外面的には、同胞倫理のうえにたつ愛の共産主義という方向に、内面的には、およそ苦難のうちにある人々への愛、隣人愛、人間愛、ついには敵への愛というような、宗教的愛の心情にまで高められていった。」:「昇華された宗教的エクスタシスに独特な幸福感」。「対象のない無差別主義的な愛。」

→「その倫理的な要求はつねにおよそ社会的集団の制約を、いや、しばしば自分の属する信仰上の団体の制約をさえも乗りこえて、普遍主義的な同胞意識への方向をめざすようなものであった。」 (112)

 

◆宗教上の合理性と経済的な合理性の緊張

・経済的な、貨幣価格を目標とする合理性は、同胞倫理に対して敵対関係にたつようになる。□宗教(同胞倫理)の実質的合理性⇔市場経済の形式的合理性

→営利生活が、同胞倫理を掘り崩す:達人的な宗教倫理は「経済財の所有」を拒否する。Cf. 修道層の生活。

→しかし禁欲が拒否する富を禁欲自身が作り出すというパラドックスが、どの時代の修道僧たちにとっても躓きの石であった。(115)

→この緊張関係を原理的にかつ内面的に避けて通る道で、首尾一貫したものは二つしか存在しない。

@その一つが、ピューリタニズムにおける召命[職業]倫理である。これは、達人的宗教意識としての「愛の普遍主義」を放棄し、現世におけるいっさいの活動は神の聖意への奉仕、また、恩恵の身分にあることの検証として、合理的に事象化する。さらに、従来は堕落な状態とされてきた経済的秩序界の事象化をも、神の聖意にかなうものとして承認する。

Aピューリタンの反同胞的な立場は、もはや本来の救いの宗教とはいえない。もし本来の宗教であり続けるためには、同胞倫理を、「愛の無差別主義」のきわめて純粋な表現である「慈悲」にまで高めるという、緊張関係の回避という戦略によるしかない。(115-6)

 

◆「普遍的な同胞倫理」と「特殊的な政治国家」の緊張

・呪術的な世界では、戦争をする場合、それぞれの地域の神が、自己の力を立証するというかたちで争った。しかし、普遍主義的な宗教では、とりわけ世界神が『愛』の神であるとされている場合には、政治的秩序と対立した。→官僚制的国家機構にとって、国内政治機能の全過程は、国家理性の即事象的な実践原理、つまり、対内的・対外的な権力配分の状態の維持(あるいは変革)であり、これは、普遍主義的な宗教からみれば無意味な事柄である。(118)

・【国家】:「正当性を与えられた暴力行使の独占を要求する団体」

→権力の行使は、倫理的な正義に関わっているわけではない。「むしろ、政治的議論からいっさいの倫理的なものを排除してしまったほうがより清潔で、それのみが誠実なやり方だと考えざるを得ない。政治が『即事象的』で打算的なものとなればなるほど、また激情、憤怒、愛情などを欠いたものとなればなるほど、およそ政治は、宗教的合理化の立場からすれば、ますます同胞倫理とは無縁なものと考えるほかなくなってくるのである。」(119)

□「同胞倫理としての国家」⇔「官僚制統治機構としての国家」

□「同胞的宗教倫理」⇔「現世における目的合理的行為の自己法則性」(130)

 

◆死に対する意味づけの問題、信仰と戦いの関係

・戦争は、近代的な政治共同態の内部に、パトスないし共同態感情を生み出し、戦士たちのうちに献身と無条件的な犠牲への共同感情を呼び起こす。(120)

・戦場における死は、「何かのために」死ぬことである。ここでは、宗教が取り組むべき普遍的な意味における「死の意味づけ」の問題はそもそも成立しない。死を意味づけるのは、政治権力である。政治的団体の権威の維持のためになされる。これに対して「同胞的倫理的な宗教意識にとっては、戦争を介して結ばれる人間集団の同胞倫理のごときは、戦闘の残忍性がただ技術的に洗練されたかたちで反映しているにすぎず、また、戦場における死を現世内的に聖化することは同胞殺戮を美化するだけのものであって、いずれも無価値な事柄と考えるほかない。」(121)

→しかし、戦争において形成される「同胞関係」や「死と向き合う非日常性」というものが存在する。国家は、「聖なるカリスマや神との交わりの体験」を可能にする。

 

□「暴力装置としての国家」⇔「神の意志を体現した(禁欲精神としての)国家」の緊張関係:この緊張関係を異化に解決するか。

@ピューリタニズムの特殊恩恵説による解決:神の命令を信じて、その命令を現世に固有な暴力手段を用いて強制する。そしてそれが神の意志だというふうに理解する。「しかし、これは少なくとも、神の『ことがら』[つまり大義]のために同胞倫理的義務に制限を加えることを意味しよう。」(122)→これを【禁欲精神としての国家】と呼ぶことができる。

Aルター的反政治主義による解決:いっさいの政治から身を引く。「地上的秩序の根本的に悪魔的な性格を当然のことと結論する」か、「地上的秩序に対する絶対的無関心の立場」をとる。(124)

 

◆有機体説的な社会倫理:世俗内禁欲の職業思想に対立する最も重要な類型

「同胞倫理としての国家」(⇔「禁欲精神としての国家」)

・差別を含む合理的な同胞倫理的要求である。

→宗教的カリスマは平等には与えられていないという経験的事実。

→各個人ないし各集団にそれぞれのカリスマに応じて、また運命によって定まる社会的・経済的地位に応じて一定の任務を与えられているような、秩序ある業績の世界へ。

・「有機体説的な社会倫理は、徹底した神秘論的な宗教的同胞倫理には、すべて現世における特権社会層の利害への適応と映ることは避けがたいであろうし、また、世俗内禁欲の立場からすれば、有機体説的社会倫理には、個々人の生活を倫理的に全面的に合理化するための内面的起動力が欠けている、ということになるであろう。……ところが、有機体説的な救いの実践理論の側からすれば、生活秩序の合理的事象化をもたらすような世俗内的禁欲における救済の貴族主義は、愛と同胞関係の喪失のうちでももっとも過酷な形態であり、また他面、神秘論における救済の貴族主義も、……無計画な愛の無差別主義はそのようなカリスマが自己の救済を追求するための利己的な手段にすぎない、ということになるほかないであろう。世俗内禁欲も神秘論も、究極的には、社会的な問題をはらむ現世を絶対的に無意味なものとして断罪するか、あるいは、少なくともそうした現世に対する神の目標といったものは人間のまったく理解しえぬ事柄だとしてしまう。」(126-27)

・合理的行為と同胞倫理の緊張関係について(127-8)

 

同胞倫理(保守)⇔達人宗教意識(革命)

・有機体説的な社会倫理は保守的であるが、達人的な宗教意識は革命的である:これには二つの形態がある。(129)

@ピューリタン革命や聖戦の義務:「世俗内禁欲の立場から、被造物堕落の状態にある現世の経験的秩序に対して神の絶対的な『自然法』を対置すること。」(129)

A終末論的な期待の盛り上がり。千年王国運動。「こうした場合、神秘家は救世主となり、予言者と化する。けれども、彼の告知する命令が合理的な性格を持つことは決してない。その命令は、神秘家的カリスマの所産であるために具体的な性質を帯びた啓示の姿をとり、徹底的な現世拒否は徹底的な反律法主義へと容易に急変する。」(130)

 

◆「合理主義(知性主義)」と「審美的領域(芸術)」の緊張関係

・「呪術的な宗教意識」:エクスタシスあるいは魔除け、呪術的な音楽や踊りの領域→この段階では、宗教が芸術の源泉であり、また伝統の様式化の源泉でもある。しかし、同胞倫理からすれば、こうした呪術的芸術は無価値となる。宗教的実践と芸術の分化。

→やがて、知性主義が展開され、生活の合理化が進展してくると、「芸術はいまや、しだいに独立の固有な価値のコスモスを自覚的に打ち立てるようになり、そして、ある種の現世内的な救いの機能を受け持つようになる。それは日常性からの、またとりわけ、理論的・実践的合理主義の増大する抑圧からの救いという機能をうけもつ。」

→芸術は、救いの宗教と直接の競合的関係に立つことになる。(131-32)

 

◆倫理と知性:主観主義の帰結

・「知性主義的な時代には、……倫理的な判断に対する責任を拒否することが特徴的に現れてくるが、このことは倫理的価値判断を、およそ議論の成立しがたいような趣味上の判断に(『悪い』を『品の悪い』に)変えてしまう傾向をもつ。」(132-33)

□日常生活における普遍的妥当性をもった倫理⇔至高性を希求する達人宗教意識⇔創造性を重視する芸術

 

◆性愛と宗教

・本源的には、親密な関係にあった。「性交は、呪術的なオルギア技術の一部であった」。(135)→呪術と性交の結びつきから、合理的な生活規制・婚姻制度(祭司権力)へ。しかし、非合理的な陶酔状態と合理的な生活規制との緊張関係は、「恋愛(Erotik)」という非日常的な領域を生み出す。(136)

→「恋愛」は、合理化の機構性に対立しつつ、もっとも非合理的でしかももっとも現実的な生命の核心へと至りつくべき狭き門という姿を与えられることになった。(137)

・純粋に恋愛の情感自体に価値の力点をおくことは、第一次的には、封建的な名誉概念という文化的条件のもとで発展した。:騎士としての臣従関係の象徴的表現が、恋愛にまで昇華された性的関係のなかに移し入れられた。キリスト教的中世の騎士的恋愛は、処女に対するものではなく、もっぱら他人の妻である女性(貴婦人)への恋愛的な臣従奉仕であった。

→ルネサンスには、キリスト教的・騎士的な禁欲を捨て去って、本質的に男性的・競技的となった。→武人的色彩のないサロン文化の知性主義へ移行するにつれて、恋愛の情感的な性格は強められていった。(139)「恋愛の領域は歴史上、知性主義的な文化の基盤の上でいま一度力点を置かれることになる。」→禁欲的な生活との対立。→「合理的な日常生活との緊張関係のなかで非日常的なものと化してしまった性生活、とりわけ婚姻関係の枠外における性生活は、昔の農民に見られた素朴な有機的生活の循環からいまや完全に抜け出ている人間を、なおも一切の生命の根源たる自然へとつなぎ止めうるただ一つの絆となるにいたった。このようにして、……合理的なるものに対する祝福に満ちた勝利をもたらすべきこの独自な情感の価値が、力強く強調されることになった。」(140)「愛する者は、自分がいかなる合理的な努力によっても永遠に到達しえない真実の生命の核心に足を踏みおろしたと感じ、また日常性の鈍感さからも、合理的な秩序の骸骨のように冷たい手からも完全に逃れたと感じる」(141)。「騎士的な恋愛とは異なって、知性主義的恋愛の方はふたたび性の領域の自然性を、しかし意識的に、肉体となった創造者の力として肯定する」(142)

 

□恋愛的陶酔の主観性⇔同胞倫理

・「宗教的同胞倫理にとって、恋愛的関係が闘争の関係と見えてくることは避けがたい。しかも……嫉妬とか第三者に対する排他的な占有欲からくる闘争だというだけでなく、むしろ深い人間的な献身を装う、したがって洗練された姿をとった他者における自己の享楽であり、……魂に対して加えられる……奥深い内面における暴行だということになる。完全な恋愛共同態の場合は、お互いにとって不可思議な定めによって、つまり、語の最高の意味における運命によって形作られ、そして、それによって(まったく非倫理的な意味において)『正当性を与えられている』とつねに考える。しかし、救いの宗教にとってみれば、この『運命』なるものはただ偶然に激情が燃え上がったというだけのことにすぎない。」(143)

・「同胞倫理の立場からすれば、最高度に昇華された恋愛は、奥深い内面において必然的に排他的、かつ考え得るかぎり最高の意味において主観的であって、絶対に伝達不可能であり、まさしくあらゆる点において、宗教的な方向づけをもつ一切の同胞関係に対してその対極とならざるをえない」。(144)

 

[ウェーバーに欠けている分析]:同胞倫理が失われた世界における恋愛の意義

・所有欲の延長としての恋愛

・日常生活に意味と規律(張り合い)を与えるものとしての恋愛

・消費社会の自己探しゲームの延長としての恋愛

・恋愛の創造力を動員する社会

 

◆現世に対する合理的な意味づけ:「宗教意識」⇔「知性主義」

・芸術的体験や恋愛体験などに身をゆだねることを拒否する。→この態度を通じて、倫理的にであれ、純粋に知的であれ、合理的な仕事へエネルギーを流入させるその力の高揚が可能となる。→世界を合理的に解明するという知性の企ては、現世が何らかの倫理的な意味を帯びる世界であるという要請と対立する。個々において宗教は合理主義と対立するが、しかし他方で、宗教は、呪術や瞑想という性格を失って「教養」の姿をとることになると、合理的な擁護論が必要となってくる。(148)→このように宗教が文書的教養の色彩を帯びるようになると、俗人の合理的な思考をかき立てるようになる。祭司から独立する神秘家、懐疑主義者、信仰に敵対する哲学者が出現する。

□祭司権力と知性(教育)と国家

「歴史的に見出される大規模な教育制度のうちで、こうした祭司層の権力から独立し、また、そのことによって祭司宗教そのものをも排除しえたのは、儒教と古典古代だけであるが、前者の場合には国家官僚の力によって、後者の場合にはむしろ反対に官僚的行政がまったく欠如していたために、そうしたことが成功したといってよいであろう。その他の場合には、通常、祭司層が学校教育の担い手であった。」(149)

・祭司層は知性主義とさまざまな仕方で結びついた。しかし宗教意識の知性主義には、次のような根本的矛盾がある。すなわち、「不合理なるがゆえに、われ信ず」という命題である。このような「知性の犠牲」なしには、いかなる宗教もやっていけない。(150)

・宗教が与えるのは、究極的な知性的知識ではなくて、世界の意味の直接的な把握によって得られるような究極的な立脚点である。宗教は、世界の「意味」を悟性という手段によってではなく、啓示というカリスマによって解明する。(150-1)

→宗教によって生きる意味と立脚点を獲得する。⇔科学や規範に関する知識を身につける。

→「カリスマ的な国家指導者→祭司的官僚体系→規律訓練権力による教育」という図式。

 

◆「現世拒否と永遠秩序の希求」⇔「現世内部の普遍的価値秩序」

・「救い」の要求:生の現実の組織的・実践的な合理化の試みの帰結として生じた。(152)

→ここでいう「合理化の試み」とは、「この世界の動きは少なくとも人間の利害関心に関わりを持つ限りで何らかの意味ある出来事だと考えようとする」ことである。

・このような合理化は、まずもって、「現世内部における個々人の幸福の不公平な配分に対する正当な補償の要請として」ある。(153) 

→「合理的思考が正当な応報による補償という問題に熱心に取り組めば取り組むほど、その問題を現世の内部で解決することがますます不可能となり、現世の外での解決の方が確率の高い、あるいは意味の大きいもののように見えてきた」。「苦難の存在という事実そのものがすでにそれだけで、どこまでも非合理的であるほかない。」→「罪の由来」といういっそう非合理的な問題がある。現世は不完全なものとして現れざるをえない。→現世の価値をいっそう喪失させる。→@「時間の永遠なる持続、永遠なる神、永遠なる秩序」という観念に至る。あるいは、A「現世内部において最高に価値のある諸財」が時間を超えて理想化されるような秩序、最高の文化財からなる秩序という観念に至る。「不完全で暫時的な現世の財一般などよりははるかに大きな意義をおびる、そうした一連の思想が、宗教的地平に入りこんでくる。」「それらは智力あるいは趣味のカリスマに結びつけられており、それらを培い育てるには、同胞倫理の要求に逆らい、自己欺瞞によってひたすらそれに適応していくという、そうした生き方を前提とすることが避けがたい。教養的・趣味的文化における壁は、あらゆる身分的差別のうちでも、もっとも内面的で、かつ乗り越えがたいものである。こうして宗教的な罪責はいまや、その時々の偶然的なことがらとしてばかりでなく、文化全体の、またある文化世界における行為全体の、さらにはおよそ生における形成物全体のなかに含まれる主要な構成要素として現れることになる。」(154-55)

 

◆知性による文化所有の意味化と無意味化

・「自然的因果律によって形作られた秩序界」と「倫理的な因果応報の要請として形作られた秩序界」の対立。「自然的因果律の秩序界を創造した科学は、自分自身の究極的な前提について確実な解明を与えることはできないにしても、『知的誠実性』の名において、科学こそが思考による世界観察のただ一つの可能な形態だ、という主張を携えて立ち現れてくる。そして、知性が……人間のあらゆる人格的・倫理的な諸資質からまったく独立した、したがって同胞関係に反するような合理的文化所有の貴族主義を作り出すことになる。ところが、……このような文化所有には、倫理的罪過のほかにも、さらに、文化所有をそれ自体の尺度で評価しようとする場合さえ、その価値をはるかに決定的に喪失せざるを得ないようなものが、つまり無意味化という事実がまとわりついている。ひたすら文化人へと現世内的に自己完成を遂げていくことの無意味化、言い換えれば、『文化』がそこに還元されうるかに見えていた究極的価値の意味が失われてしまったことは、宗教的思考からすれば、……死が意味を失ってしまったということから帰結したのであって、死の無意味化こそが、ほかならぬ『文化』という諸条件のもとにおいて、生の無意味化を決定的に前面に押し出したのだということになる。」(156-7)

 

◆文化的教養人⇔禁欲精神

□「文化的教養人の没落、価値喪失」⇔「禁欲精神による現世の実践的合理化」

・「『文化内容』の獲得ないし創造という意味で自己完成を追求する教養人の場合、……『生きることに倦怠する』ことはありうるが、一循環が完成したという意味で『生きることに飽満する』[農民・領主・戦士などの生き方]ことはありえない。なぜなら、教養人にあっては完全の追求は、原理的には文化財の場合と同様、どこまでいっても限りのないものだからである。そして、文化財や自己完成の目標がさらに分化し、多様化してくればくるほど、個々人が――受動的には受容者として、能動的には共同の創造者として――限りある人生のうちに自己の手中に抱え込みうる部分は、ますますわずかなものになってくる。……だからまた、『文化』や文化の追求がその個人にとってなんらかの現世内的な意味を持ちうるということも、いよいよ真実らしさを失ってくることになる。」(157-58)

・「『文化』なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。しかも、文化財への奉仕が聖なる使命とされ、『天職』Berufとされればされるほど、それは、無価値なうえに、どこにもここにも矛盾をはらみ、相互に敵対しあうような目的のために、ますます無意味な働きをあくせく続けるということになる、そうした呪われた運命に陥らざるをえないのである。」(158-159)

・「現世は不完全、不正、苦難、無常、そして必然的に罪責を負っていて展開と分化が進むにつれてますます無意味化していくほかない文化、そうしたものにみちみちた場所」である。→「現世の価値喪失」→「救いの欲求」が現れる。→「現世の『意味』に関する思索が組織的となり、現世の外的な組織が合理化され、またその非合理的内容の自覚的体験が昇華されたものになればなるほど、宗教的なるものの独自な内容は、それとまったく並行して、ますます非現世的な性質をおび、あらゆる生のかたちあるものとはおよそ無縁なものになりはじめる。……こうした道を切り開いたのは、現世を呪術から解放する理論的思考の力だけではなくして、まさしく現世を実践的・倫理的に合理化しようとする宗教倫理の努力に他ならなかった。」(159-60)

□「神秘論的な貴族主義」⇔「禁欲精神による現世の実践的合理化」

「知性主義に独自な審美論的な救いの追求は、こうした緊張関係[現世の価値喪失=意味の分断化]に直面すると、非同胞的な関係の世界支配にさえも結局屈服してしまうことになる。一つには、そうしたカリスマは誰にでも得られるものではないからである。神秘論的な救いの追求はその意味するところからして当然に最強度の貴族主義、つまり宗教的救済における貴族主義とならざるをえない。」(160)

□ウェーバーは、現世の価値喪失を救うものが、禁欲精神による実践的合理化であると考えている。また禁欲精神は、神秘論的な貴族主義とも対比され、同胞的な国家支配を可能にするものとして、暗に描かれている。

 

 

マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』付録「儒教とピューリタニズム」

 

◆宗教の合理主義的基準

@その宗教がどこまで呪術を払拭しているか。(167)

A現世[世俗生活]にたいする固有な倫理的関係がどこまで組織的に統一されたものとなっているか。(167-8)

 

◆ピューリタニズム

・【禁欲的プロテスタンティズム】は、呪術を完全に圧殺した。呪術的なものはすべて悪魔的であると考えられ、ただ合理的・倫理的なもののみが宗教的な価値を持つものとされる。合理的な要求を掲げて、それ自体としては不合理な現世と、緊張関係に立つ。

 

◆ピューリタニズムにおける心情

・資本主義的な経済的心情は、経済政策では決して作り出させるものではない。

・「市民的な方法的生活態度」が必要である。(187)

→現世の合理化が必要である。

→ピューリタニズムでは、「人間は、神に対して被造物的堕落のうちにある、という点では一人一人なんの差別もありえない。つまり、人間はすべて本来ひとしく永劫の罰を受けるべき、倫理的に絶対不完全なものであって、現世はそうした罪の容器に他ならない。現世のむなしい慣習に順応するようなことは堕落のうちにあることの印であって、儒教的な意味における自己完成[修養]なるるものは被造物を神化し、神を冒涜する[人間中心的な]理想と考えられた。富とそしてその享楽に耽ることは特別な誘惑であり、人間の哲学や文書的教養を誇ることは罪に染まった被造物的傲慢」である。(188-9)

→ピューリタニズムにおいて「圧倒的な影響を持ったのは、現世を超越する神の摂理と、その測りがたい[人間の]功績によらぬ『自由』な恩恵[という思想]であった。……滅びの群のうちで救済に到達するよう召される者は少数にすぎない。……人間はいつ、いかなる時にも、みずからそれを獲るにふさわしい者たることをつねに示しえなければならなかった。……決して、自己の業績によって永遠の救済を獲得しうるからではなく、……個々人にとって、自分の救いに関わる神の召しが自己のものとなりきるのは、またとりわけそれが認識できるのは、自分のこの短い生涯が現世を超越する神とその意志に対して求心的・統一的な関係にあるという意識、すなわち、『聖化』[の事実]においてのみだから、であった。……こうして、個々人にとっては、自分は神の器であるとの確信の中に救済の確証が与えられることになった。」(190-1)

 

◆儒教

・儒教は、呪術は現実に救済をもたらすものと考えて放置した。

→自然科学的知識の完全な欠如。

→意図からすれば合理的な倫理でありながら、宗教的無価値化の点でも、実践的拒否の点でも、現世に対する緊張関係がおよそ最小限度までに縮小したものが、儒教であった。儒教によれば、現世は考えられうる様々な世界のうちで最善のものである。(169)

・人間の本性は、善である。(170)

→「儒教徒がひたすら求める「救い」は、ただ無教養の野蛮状態から逃れることであった。徳の報償として期待されたのは、現世では長寿と健康と致富、そして死後にはよき名を残すということであった。純粋なギリシア人の場合とまったく同様に、倫理の超越的な根拠づけだとか、現世を超越する神の命令と被造物たる現世とのあいだの緊張関係、また彼岸的な目的に向かってひたむきに指向する態度、根源的に悪なるものの観念、およそそうしたものにはまったく欠けていた。人間の平均的能力に見合ういましめに違反しさえしなければ、すべて、[宗教的に]なんら罪もない者であった。こうした諸前提が自明のものとなっているようなところでは、キリスト教の宣教師たちが罪の意識を呼び覚まそうとしても、まったく効果がなかった。」(171)

→「こうした無条件の現世肯定的・現世順応の倫理[が成り立つため]の内的な前提条件は、純呪術的な宗教が本来の姿のままで存続しているということであった。すなわち、自己の個人的資質によって精霊の静穏や降雨、収穫期における好気象の招来などに対して責任をとる、そうした皇帝の職分から始まって、およそ公式宗教でもその基礎となっている祖霊に対する礼拝儀式や、世俗の呪術的治療、……」(172)

t_作物の不作に対して「責任」をとるという考え。

→「問題となったのは、つねに精霊の守護のもとにおかれている個々の義務、──誓約であれ何であれ、──であって、人格そのものやその生活の内的形成ではなかった。」(173)

→「典型的な儒教徒は、自己および自己の家族の節約したものを用いて学問的教養を十分に身につけ、官吏登用試験に合格し、それでもって身分の高い地位にのぼることのできる足場を獲ようとした。」(204)

 

汳国人の性格:見慣れぬものに対する嫌悪。手近なもの、有用なもの以外の事柄に関する知識の拒否。⇔呪術的なペテンに対して示されるお人好しな軽信性。(176)

・個人的にもっとも近い人々に対してさえ、一見真に同情的な共感が欠如していること。→中国人相互のあいだの不信頼。(177)

 


◆慣習の束縛

・「生活が外側から堅固な規範によって規制されていない場合には、……様々な特徴が不安定になる。……彼らの生活態度には、およそ内面から発する、つまり自己の内部に態度決定の中心があり、それによって規制されるような統一が欠如しているという事実と、無数の慣習の力によって作り出されている[動きのとれない]束縛とが、根本的な対照を形作っている。」(177)

・数限りない儀礼上の束縛:純粋に慣習的・儀礼的なもの。(180)

→儀礼的に定められた問いに、儀礼的に定められた応答。身ぶりや対面の領域。礼の理想。

 

◆中国:陶酔の欠如

・「陶酔とオルギア的『憑物状態』は、すでにカリスマ的な神聖さをまったく喪失していて、もっぱら悪魔の支配を示す兆候だというふうに考えられていた。」(178)

→官僚によって祭儀が意識的に非陶酔化された。

 

◆儒教とピューリタニズムの比較

・「真正の預言は、『現世』は規範に従って倫理的に形成すべき材料だとし、一つの価値基準にあわせて[自己の]生活の内側から組織的に方向付けていこうとする、そういった態度を作り出す。が、儒教は、これと正反対に、「現世」の諸条件に対する、つまり外側への順応であった。」(182)

・根本的に楽観的な現世主義の倫理体系(183)

⇔現世と個々人の超現世的な使命とのあいだに存する悲観的な緊張関係

・家族への恭順:経済組織の範囲を規定する(183-4)

⇔普遍的な人間愛(孟子によれば、これは恭順と正義を没却するものである。)

・義務の内容:「道」具体的な人間に対してとるべき敬虔な態度。(184-5)

→「事象的な使命」ではなくて「人間(人格)」に結びつける傾向。

・儒教の非合理性:呪術

⇔ピューリタニズムにおける非合理性:現世を超越する神のきわめがたい決断

・「儒教の合理主義は合理的な現世順応を意味し、ピューリタンの合理主義は現世の合理的克服を意味した。」(205)

 

◆ピューリタニズムの倫理

・「現世を超越する神と、また被造物的に堕落し倫理的に非合理的な現世との関係から帰結するものは、逆に、@伝統の絶対的な非神聖視と、そしてA所与の世界を支配し制御しつつ、これを倫理的に合理化しようとするB不断の勤労への絶対的無際限な使命、ようするに、C『進歩』への合理的な即事象的態度であった。」(192)

ノこの五つの特徴は、ほんとうにすべてピューリタニズムから発生したものなのかどうか。

→現世[世俗生活]の合理的改造への使命。神の意志に適うように生活態度を組織的に統一すること。

→ピューリタニズムにとって、「人間と人間との関係は、もしそれ自体としてあまりに密接となる場合には、被造物神化として無条件に避けるべきものであった。」(193)

→すべてを事象化し、合理的「経営(Betrieb)」と純粋に「事務」的諸関係に還元。

→「典型的なピューリタンにとっては、経済上の成功は究極目標や自己目的ではなく、自己の救いを確かめうる手段であって、そこから、あの自己の内部に中心を持ち、この内側から発する、宗教的性格を帯びた合理的・組織的生活が結果した。」(197)

→ピューリタンは、「現世を超越する全知の神の目が注がれているのは、奥深い内面の心的態度だ」と信じた。→「ピューリタン相互のあいだでは、信頼が、とりわけ経済上の信用でさえも、……絶対的に揺るぎないものとの確信の上に打ち立てられることができた。」(199)

→典型的なピューリタンは、多くを儲けるが、禁欲によって節約へと促迫される結果、その利得を資本として再び合理的な資本主義的経営に投下した。(204)

⇔完全な現世人[世俗人]としての品位を維持すること。

⇔中国における社会的行為:純粋に人間的な、とりわけ血縁的な関係。

 

◆中国で資本主義が発生しなかった理由

・中国人は、露骨な唯物主義という性向を持っているが、しかし、中国からはあの合理的で方法的な経営は生まれなかった。また、中国では、国内市場の商品流通は相当集約的であったが、近代にみられるような市民的資本主義は生まれなかった。(196)

・中国では、「宗教的寛容の程度ははるかに広く、財貨交易の自由ははるかに大きく、安全、移動の自由、職業選択および生産方法の自由なども存在し、商人根性に対する反感もおよそみられなかった。……こうして『営利活動』、富の排他的な尊重、また功利主義的『合理主義』といったものも、ただそれだけでは、まだ近代資本主義とは無縁なものだという事実を、このまさしく典型的な営利の国土において学びとることができる。」(197)

・「儒教徒の場合、富は、……有徳な、すなわち品位ある生活を送り、かつ自己の完成に没頭する、そうしたことができるための最も重要な手段だとされた。……ピューリタンの場合、貨幣利得は、……きわめて容易に被造物神化に転ずるものとされた。」(201)「儒教徒にとっては専門人(Fachmensch)なるものは、たとえ社会的有用さという価値を持ってしても、真に積極的に品位のあるものと考えるわけにはいかなかった。なぜなら、……『品位のある人間』すなわち君子は、けっして『道具ではない』からであった。君子は、現世順応的な方向での自己完成、そうした努力における究極の自己目的である。……儒教倫理の核心をなすこうした信条は、専門の分化、近代的な専門的官僚制、それに専門的訓練といったもの、わけても営利を行うための経済上の訓練を排斥した。」(202)

→「書籍的教養を備えた人間」

⇔古代ギリシアにみられた弁論と対話の熟練と尊重

⇔ピューリタンは、哲学的・文学的な教養を時間の浪費であり宗教的に危険なものとして退けた。

 

◆近代に独自な資本主義の特徴

@神の聖意に基づく目的への徹底的な集中(203)

A禁欲的倫理から由来するひたむきな実践的合理主義

B「経営」という方法的な発想

C政治的・植民地主義的な、また君主その他の人々の情実関係を足場にした非合法的な略奪-独占資本主義への嫌悪

D日常的経営における合理的なエネルギーの統御

E従来の熟練や作品の美に対する伝統主義的な喜悦に代えて、技術的に最良の方途や実際的な確実性・合目的性を尊重する合理的な態度

【職業人(Berufsmenschentum)】という近代的人間類型の発生(204)

・「職業」⇔儒教における君子の理想:神の道具ではない